モーパッサンから翻案した圓朝作・名人長二

2019年1月28日 月曜日 吹雪


古今亭志ん生(五代目) 三遊亭圓朝作・人情話・名人長二

 https://www.youtube.com/watch?v=G7MSaZFxPFs(二)00:27:58~ (三)00:55:28~ (四)01:23:22~ (五)01:51:10


補註 5代目古今亭志ん生は圓喬の弟子であると生涯自称していた、とのこと。(ウィキペディア「橘屋圓喬(四代目)より。) 補註: 上記ユーチューブでの志ん生さんのお話でもそのように語っている。圓朝、圓喬、志ん生。つまり志ん生さんは圓朝の孫弟子となる、とのこと。また、「志ん生半生記・なめくじ艦隊」ちくま文庫1991年(オリジナルはもっと以前)にも、「あたしが家をとびだした頃、友達の一人ですが人形町に、橘屋圓喬という落語家のタマゴみたいなのがいて、そのころの名人といわれる噺家のくるまをひいていたんです。その圓喬があたしに、「おめえ、噺家になったらどうだい?・・」「ウム、じゃアひとつやってみようか・・」てえんで、いきなりこの世界へ入ってきたんです。(同書、p42)とある。(補註の補註190131 「なめくじ艦隊」の解説によると、「橘屋圓喬は落語家のタマゴではなく、その時代すでに名人の名をほしいままにしていたのだから、これは友人の車夫と混同している」とのこと。同書を読み進めると、圓喬を師匠としていたことが再び語られるのであるが、志ん生さんがどこまで混同しているのか、補註者には不明である。


補註 圓朝作の「名人長二」(1887)はモーパッサン「親殺し」1882年 からの翻案、とのこと。ウェブで足立和彦さんの飜訳を読むことができる。「1882年9月25日、日刊紙『ゴーロワ』 に掲載された短編小説(1884年8月19日付『ジル・ブラース』 に「殺人者」 « L’Assassin » の題で再録、1885年、短編集『昼夜物語』に収録。  http://maupassant.info/conte/un.parricide1882.html 以下引用: 本作は、三遊亭円朝作『名人長二』(『中央新聞』、1895年4月28日~6月15日連載)の原作であったことが知られている。これは日本におけるモーパッサン移入のもっとも早い事例であった。円朝はこの作品について、横浜税関長をしていた有島武、またはその夫人から情報を得たという。 補註続き190131 また、落語「死神」はグリム童話からの翻案であるとのこと。原作のあらすじを読んだだけであるが、確かにかなり忠実な翻案である。

http://maupassant.info/conte/un.parricide1882.html


補註 わたし自身にとって、モーパッサンは読みたくない作家の序列の筆頭付近にある作家なのである。小学校か中学校の頃に国語の教科書か何かで「ジュール叔父さん」を読んで以来、さらに「首飾り」などを読んでからも、その評価は揺るがない。が、今回、圓朝からの孫引きで遭遇した行きがかり上、上記の足立さんの飜訳で通読してみた。殺された男が、モーパッサンでは実の父親、圓朝では実母の再婚相手で(少なくとも形式上は)実父を殺して実母を奪って、さらに生まれてきた赤児(後の名人長二)を無慈悲に藪に捨てた男となっている、など若干の相違点があるが、大筋では忠実な翻案になっている。


補註 志ん生さんの「名人長二」の冒頭で語られる名人の絵として、橋本雅邦の竜虎図が語られている。ウィキペディアによると・・・橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日1835年8月21日) – 明治41年(1908年1月13日)は、明治期の日本画家。本名は長郷。幼名は千太郎。号は勝園。別号に、十雁斎、克己斎、酔月画生など。・・・(中略)・・・雅邦は同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家で、芳崖と共に狩野派の描法を基礎としつつも洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。雅邦の代表作の一つである『白雲紅樹』では、従来の山水画を基にしながら、月の光と空気の透明性を微妙な色彩で表現している。<以上、ウィキペディアより引用>

補註 ウィキペディアに掲載されている画像を詳しく見ると、竜虎それぞれ単独ではなく、後ろや下にもう一匹ずつの虎や龍が潜んでおり、志ん生さんが語るように、女将さんがあんた頑張っておくれよ! と助太刀しているように見えないでもないのである。確かに。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/橋本雅邦#/media/File:Ryūko-zu_Byōbu_by_Hashimoto_Gahō(Part_of_the_dragon).jpg http://www.seikado.or.jp/collection/modern/001.html


竜虎図の代表的なものとして狩野山楽 

http://www.salvastyle.com/menu_japanese/sanraku_dragon.html

長谷川等伯 

http://www.salvastyle.com/menu_japanese/tohaku_tiger.htmlhttps://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-09.html

雪村周継(せっそんしゅうけい) 

http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=10685 雲をよぶ龍と風を起こす虎とを対峙(たいじ)させることは、風雲に遭(あ)う覇者(はしゃ)の姿として、室町時代中期以降、戦国武将や禅僧の間で好まれた、とのこと。

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圓喬と圓朝との比較(同じく、ウィキペディア「橘屋圓喬(四代目)より<以下引用>): (圓喬の)話術の巧さは、師匠圓朝を凌いだと言われている。剣豪榊原鍵吉撃剣興行で演芸界にも馴染みがあった)は「圓朝は研いだ正宗、(圓喬の兄弟子の)二代目圓馬は研がない正宗、圓喬は村正」と評した。6代目三遊亭圓生は「芸の品格のあるなしではないか。」圓喬の技術は完璧すぎて「あまりに欠点のない、兎の毛でついたほどのすきもないというのはかえって妙味が少ない。」と、その評を分析している。日本画鏑木清方は「とにかく圓朝はうまかった。圓喬もうまかったが巧さが違う。」と証言している。これについても圓生は「圓朝は自然の品位であり、地であったが、圓喬はそれを装っていた。」と分析している。(三遊亭圓生,1999,『新版 寄席育ち』青蛙房,ISBN 4790501051)(以上、ウィキペディア「橘屋圓喬(四代目)より引用)


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三遊亭圓朝: ウィキペディアによると・・・初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう/天保10年4月1日1839年5月13日) – 明治33年(1900年8月11日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。江戸東京落語三遊派大名跡。円朝とも表記。三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした、現代の日本語の祖でもある。・・・(中略)・・・ 圓朝の新作: 圓朝による新作落語には名作佳作とされる作品も多く、多数が現代まで継承されている。特に『死神』は尺が短いこともあって、多くの縁者が演じている。圓朝は江戸時代以来の落語を大成したとされ、彼の作による落語は「古典落語」の代表とされる(現在では大正以降の作品が「新作落語」に分類される)。人情噺では、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、『芝浜(異説あり)』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案には『死神』『名人長二(発表:1887年。原作:モーパッサン「親殺し」)』『錦の舞衣(発表:1891年。原作:ヴィクトリアン・サルドゥ「トスカ」。後にプッチーニにより1900年にオペラ化される『トスカ』の原作)』がある。奇談としては『鰍沢』(三題話)などもあり、非常にレパートリーが広い。  <以上、ウィキペディアより引用終わり>


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