2021年12月20日 月曜日 曇り
小浜逸郎 「弱者」とはだれか PHP新書083 1999年
・・私たちの問題意識や関心の多くの部分は、ほんとうに自分自身の切実さにもとづくものではなく、その時々の事件情報などによってマインドコントロールされて形成されるものである。それは、私たちが、マスメディアの次々に流す情報によって、そのつど危機意識や不安感を刺激されながら、少しばかり時間が経ってしまうともうその危機意識や不安感を忘れてしまって次の話題で自分を満たそうとしていることによっても裏付けられる。 問題はむしろ、メディア情報を一種の「見世物」として消費し続ける私たちの空虚な心のあり方のほうにある。ほんとうは、私たちは、それらのテーマを本気で考えようなどとしていないのだ。本気で考える必要性を自分の日々の生のなかに感じていないからである。(小浜、同書、p24)
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・・これらの表現がいたずらに扇情的であると私が考えるのは、そのような常識的な感情に対して、あえてそれをひっくり返して見せるような、奇を衒った作為を感ずるからである。一見広く人々のエモーションを刺激するように見えて、じつは、常識的感情と逆説的感情とのこの距離は埋まらないのではないか。(小浜、同書、p65)
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中絶は障害者差別につながるか
・・羊水検査の段階でかなり確率が高いと診断された親が中絶を希望する心情は、現に障害児を抱えている親の心情と断絶しているのではなく、連続している。両者を隔ててしまうのは、生まれる前と生まれた後という現実の立場の相違にすぎない。 もともと障害者本人やその家族が、障害の事実を受け入れ、自分たちの現実を肯定する心情は、逃れられない事態に対するあきらめの過程をくぐり抜けた上で成立している。その過程には、どうして私たちだけがこんな不運な目に遭わなくてはならないのかという「運命への呪い」の期間が濃密な形ではさまっている。それがなければ、・・「突き抜けた心境」は必然性を持たない。言い換えると、まず逃れられない現実から立ち上る、個別的・直接的な不幸感を前提としてこそ、それ自体を糧に転じようとする精神の運動も意味を持つわけだ。 したがって、これらの言明は、個別経験を超えた一般的なレベルで、「そう考えるべきだ」といった倫理的な命題にはなりえない質のものである。障害児をまだ持たない親とすでに障害児を抱えている親は現実的な立場が異なっている。だから、その境界のこちら側から向こう側に向かって、「羊水検査でプラスと出た人が中絶を希望するのは、現に生きている障害者に対する差別の思想につながる」と訴える考えに、あまり根拠があるとは思えない。(小浜、同書、p68-69)
科学技術に向き合う態度
・・現に「ある問題」が「ある問題」として意識されているとき、科学技術的な知のあり方も、それを解決に導く可能性を持った「一つの手」であるということだけは否定しがたい。 私たち人間は、起きてしまった事実、背負ってしまった運命は「仕方ない」としてこれを引き受け、そこから発生する社会的・実存的な問題についてそれぞれが悩み尽くして解決や納得を求め、一方で、この方がもしかしたら人間をより幸福にするかもしれないというアイデアについては、その是非を慎重に検討しながら選び取っていくという生の態度を取らざるをえない。(小浜、同書、p71)
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