philosophy

ヨーロッパの自己克服の継承

「神の死」と「神の影」

・・・この自己認識は、キリスト教と自己自身に対して、少し甘すぎるのではないか・・・同じことをこう表現することもできるのではないか。キリスト教から受けつがれた隠微で執拗な復讐意志とそれにともなう残忍さとが、いまや母体であるキリスト教そのものに向けられることになったのだ、と。それらは恐らく、同じことの二つの側面なのである。
 もう一つは、無を無として認めるとはどういうことか、という問題である。ニーチェは、神が死んでもなお神の影が残っているという。進歩とか、平等とか、民主主義とか、人権といった諸概念がそうした影に当たるだろう。たしかにわれわれは現在、そうした観念が絶対的根拠を欠いた作り物であることを知ってはいる。だが、多くの場合、作り物ではあるが、まさにそうであるからこそ守り育てるべきものだ、と言いはしないか。だが、そのように言うことは、必然的に「なぜ」という誠実な根拠への問いを招きよせる。だから、真に守り育てるためには、そのように言うのではなく、そのように生きなければならない。守り育てるべきだと語るのではなく、それを自明の前提として、その中で生きなければならない。神が生きているとは、そういうことだろう。影にはその力がない。ニヒリズムとは、恐らく、そういうことなのである。

以上、永井均「これがニーチェだ」 講談社現代新書 1998年 p85-6 「神の死」と「神の影」の項より引用。

喜ばしき知識 343、357 も参照ください。

「こうしたことは今や終わりを告げる。それはおよそ良心に反するのだ。これらは、あらゆる敏感な良心にとって、不作法で不名誉なことであり、嘘八百や、フェミニズムや、軟弱さ、臆病と受け取られる。われわれが良きヨーロッパ人であり、最古で大胆きわまりないヨーロッパの自己克服の継承者たる所以が何かあるとすれば、この厳格さこそがそれなのだ。」 以上は、ニーチェ 喜ばしき知識 357 村井則夫訳 (河出書房新社 2012年) p397 より引用。

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ヨーロッパ人としてのショーペンハウアーの、そしてニーチェそのひと自身の良心と厳格さに関しては、私もかなり大きく認めるにやぶさかではない。が、ニーチェの属するヨーロッパの属性としてそれを認めることに対しては、私も永井さんと同じく首をかしげざるを得ない。すなわち、この自己(ヨーロッパ)認識は、キリスト教と自己(ヨーロッパ)自身に対して甘すぎるのではないか。ヨーロッパの自己克服の継承権からは鼻から見放され、それゆえに「無条件的に(誠実不誠実に関わらない)無神論」(村井訳p396参照)のもとに最初から生まれてきた私たちには、明らかにそのように感じられるのである。

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