literature & arts

自分自身の不幸のかたちを選ぶ(2)

あなたを突き刺すあなた固有の真実: 不幸論・明るいニヒリズム・不生庵さん

2015年4月9日 木曜日 晴れ

自分自身を選ぶこと、それは自分自身の不幸の「かたち」を選ぶことである。・・・(中略)・・・自分自身とは何か、それがどこかにころがっているわけではない。「そのままのあなたでいいの」という甘いささやきが表すような安易なものでもない。
それは、各人が生涯をかけて見いだすものだ。しかも、それはあなたの過去の体験のうちからしか、とりわけあなたが「現におこなったこと」のうちからしか姿を現さない。とくに、思い出すだけでも脂汗が出るようなこと、こころの歴史から消してしまいたいようなこと、それらを正面から見すえるのでない限り、現出しない。(パウロの棘のように)あなたを突き刺すあなた固有の真実を、覆いを取り払って正面から見すえない限り、見えてこない。(中島義道 不幸論 PHP新書 2002年 より引用再掲。ただし、最後の文章の文末を一部改変*別紙 自分自身の不幸のかたちを選ぶ 脚注参照)。

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われわれが「客観的世界」と信じているもの(信じ込まされているもの)は、じつのところ「ない」ということである。・・・(中略)・・・「客観的世界」の爆破後、それに代わる新たな世界像を打ち立てる必要はない。ただ「何もない」のだ、すべてはただの「無」なのだ、ということを身体の底から確信すること、それこそが私の求めていたもの、すなわち、「死の克服」ではないか、といまだに思うこともある(それが「明るいニヒリズム」の意味である。念のため)。「私が死ぬ」とは「客観的世界の中で死ぬこと」であるから。しかし、それではやはり「救い」にはならない、「死の克服」ではない、とも思っている。(中島義道 明るいニヒリズム 2014年10月付けの文庫版へのあとがきp242-4より引用再掲。PHP新書 2015年 オリジナル単行本は2011年出版。)

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私HHの直感では(要するに余り深く分析的に考えられてないのだが)、「明るいニヒリズム」は、生きていく上でのものの見方・考え方の指針を与えてくれると思うが、端的には「死の克服」につながる「救い」には直結しないように思う。死というものは、古来からの人間の誰にでも当てはまる共通の「もの」という要素と共に、各人それぞれにとっての個別の死の「かたち」という要素もある。「明るいニヒリズム」が関わるのはどちらかというと前者における死であり、「克服」や「救い」が関わる(必要とされる)のは主に後者のほうであると思うのだ。(現時点での直感で申し訳ありません。後に訂正するかもしれません。)

「死の克服・救い」は、やはり自分自身の「死の克服」と「救い」を、各人が生涯をかけて見いだすものではなかろうか。(冒頭に引用した中島さんの不幸論からの文章を参照下さい)ーーー つまり、死もまた不幸であり、それも各人にとって究極の不幸である。だから中島さんの不幸論は、死に対しても言えるのだと思う。自分自身の死の「かたち」を選ぶこと、「それはあなたの過去の体験のうちからしか、とりわけあなたが『現におこなったこと』のうちからしか姿を現さない。とくに、思い出すだけでも脂汗が出るようなこと、こころの歴史から消してしまいたいようなこと、それらを正面から見すえるのでない限り、現出しない(上に引用した中島さんの不幸論より再掲)」のではなかろうか。

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その充実したWEBサイトとブログを通じて日頃学ばせていただいている不生庵さんのつい最近(2015年4月6日付け)の記事に、中島さんの記載にも通じるような視点が描かれているのを見いだした。以下に引用させていただく。

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愚老は、「振り向けば、鬼千匹」と呪文をとなえ、過去の愚行を思い出すまいとしてきたが、自分を「生涯罪人」「生涯欠陥人間」と考え直すことにしたら、幾分、気持ちが楽になった。さらに、自分にとってトラウマになっているような愚行を自己弁護すること無く細部まで思い出し、その全体像を繰り返し反芻していたら、少しばかり自分が浄化されたような気にもなった。 人間は、虚心になって自らの愚かしさ、醜さを直視し続けることによってしか、救われないようである。(不生庵さんの kaze no koのブログ 2015年4月6日付け「仏教か、キリスト教か?」の項より http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/13136659.html)

「自分にとってトラウマになっているような愚行を自己弁護すること無く細部まで思い出し、その全体像を繰り返し反芻すること、自らの愚かしさ醜さを直視し続けること」、それが不生庵さんにとって自分自身を見いだし、自分自身の不幸を選び、「救い」へとつながってゆく自然な道筋のように思われる。

これは「明るいニヒリズム」の視点とも異なるし、端的に「死の克服」や「救い」につながるとも言えないけれども、誠実さと呼んでよいだろうか、中島さんの視点とも一部で共鳴しあうものを感じたのである。

不生庵さんは中島さんという人自体にも興味をもっておられ、ブログでも紹介しておられる。(*脚注参照) いつか機会があったら私も自分なりに考察してみたいと考えている。私の場合はこれからぼつぼつと中島本を読み進めていく計画である。

*脚注:
誰も愛さなかった男と女 http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/love.html
自己施肥系の男とその妻  http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/12552231.html
自己施肥系の男とその妻(2)http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/12561157.html
自己施肥型の男とその妻(3)http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/12573631.html

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中島さんの『ひとを愛することができない』に対する不生庵さんのコメント(誰も愛さなかった男と女)から以下に引用紹介する:

「著者は勘違いしているのである。父親は生まれつき冷淡で無感動な人間なのではない。彼は繊細で傷つきやすい性格だからこそ、他者に依存しない、周囲から影響を受けない生き方を手探りで探してきたのだ。 彼が一家の主として水準以上の努力を続けながら、妻に憎まれ、息子にも愛されなかったのは、その自己充足型の生き方が内面の強さから生まれたのではなく、自己の弱さを守るための自己防衛欲求から来ていたからだろう。」不生庵さんのkazenokoのブログ(http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/love.html)より引用。

「著者は、自己愛を乗り越えて他者を愛することの出来ない自分を、しきりに責めているが、人間は大抵そんなものではないだろうか。特に、研究者や学者は内面の静謐を必要としているから、人を愛することで内面に無用な波乱を起こしたくないのだ。だから、愛を手に入れても、直ぐにそれを負担に感じ始める。著者の父親にしても、内面を静かに保つために家族との関係を平淡なものにしておきたかったのである。 愛には、エゴに起因する狭小な愛と、存在するものすべてに対する博大な愛がある。小さな愛に執着すれば、大きな愛が失われる。著者が親や姉妹、妻や息子から愛されたりすると、苦しくなったり疲労したりするのは、それらの愛が全体愛と折り合うことのないエゴの愛だったからではないか。」不生庵さんのkazenokoのブログ(http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/love.html)より引用。

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