philosophy

この広大な宇宙の中でたった独りで私は死ぬ

2015年5月14日 木曜日 雨のち曇り

中島義道 孤独について:生きるのが困難な人々へ 文春文庫 2008年(オリジナルは文春新書1998年)

通常の中島さんの一般書であれば一日で読み通してしまうのだが、今回は4月30日に読み始めて、読み終えた今日はすでに5月14日である。帰省、介護、緊急入院、臨終お通夜お葬式、散らかった家の片付け、訳のわからない謎のような親族との折衝、その他もろもろの雑事で追われる日々であった。雑事と言ってはいけないのかもしれない。儒教の教えでは人生で最も重大な行事であるのだから。そして哲学実技の実践の道場であったし、今もそれが続いているのだから。
 その間にも自然薯の畝の不織布ベタがけをはずし、調理用トマトの種を蒔き、明日はインゲン豆の種も蒔かねばならぬ。

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だが、今は彼らを私の人生のために活用しようと思い立った。私の豊かな人生を彩る素材として再利用しようと思い立ったのである。私は彼らが私になしたことを細部に至るまで覚えている。そしてそれを何度でも反芻する。そして、それをいかに利用しようかと思いめぐらす。そうしているうちに、私のうちで彼らを憎む気持ちが−−−消えてしまうことはないが−−−限りなく薄くなってしまうのだ。(同書、p160-161)

だが、もういい。もう他人との格闘はたくさんである。他人との血の出るような体験から、あらたに何事かを学ぼうとは思わない。(同書、p161-162)

多くの人は、家族に囲まれ手を握られて死ぬことを期待しているようだが、私は死ぬときこそ孤独でなければならないと自分に言い聞かせてきた。死の床に結集する人々は「あなたは独りで死ぬのではない」という幻想を築きあげることをもくろんでおり、冷や汗の出るような「死」の残酷さを覆いかくし、みんな共通の麻酔薬を飲んで「死」そのものを見ないようにするからである。 「ああ、いい人生だった」と満足して死ぬこと、「みんなありがとう、とても楽しい人生だったよ」と感謝して死ぬこと、これは私にとっていちばん恐ろしい死に際である。そのとき、「死」そのものの絶対的不条理が隠れてしまうからであり、それを必至に隠そうとする人々の手に乗ってしまうからである。(中島、同書、p197-198)

 私は死ぬまで「死」とは何かを真剣に考え続けるであろう。そして、いつか死ぬときは「たった独りで私がこの広大な宇宙の中に生まれてきて、たった独りで私はこの広大な宇宙の中で死ぬのだ」ということを骨の髄まで自覚しながら死にたい。家族や友人や親しい人々から永遠に別離するのみならず、この地上のすべてから、宵の明星や太陽から、いやアンドロメダ大星雲やカニ座大星雲を輝かすこの宇宙全体から永遠に別離することを自覚して死にたいのだ。(同書、p199)

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