明るいニヒリズム:客観的世界は「ない」

2015年4月8日 水曜日 晴れ

中島義道 明るいニヒリズム PHP新書 2015年 オリジナル単行本は2011年出版。

そのメッセージとは、われわれが「客観的世界」と信じているもの(信じ込まされているもの)は、じつのところ「ない」ということである。(同書、文庫版へのあとがきp242より)

「客観的世界」の爆破後、それに代わる新たな世界像を打ち立てる必要はない。ただ「何もない」のだ、すべてはただの「無」なのだ、ということを身体の底から確信すること、それこそが私の求めていたもの、すなわち、「死の克服」ではないか、といまだに思うこともある(それが「明るいニヒリズム」の意味である。念のため)。「私が死ぬ」とは「客観的世界の中で死ぬこと」であるから。しかし、それではやはり「救い」にはならない、「死の克服」ではない、とも思っている。(同書、2014年10月末付けの文庫版へのあとがきp244より)

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「明るいニヒリズム」ーーーこの本は、<いま>とは何か? という問いで端的に表される「哲学」の本である。中島さんの著書には人生相談的な内容の一般書もあるが、この「明るいニヒリズム」は中島さんの<いま>論の哲学書と呼んでよいだろう。

以下、同書より引用:

二つの大きな領域を科学は説明しえていないし、永遠に説明しえないであろう。その一つは「時間」に関するすべてであり、もう一つは「心」(あるいは意識)に関するすべてである(そして、両者は「私」において密接に連関している)。(同書、p22)

刻々と新しい<いま>が湧き出すとは」いかなることなのか? これは、これ以上説明できない端的な事実、フッサールの言葉を借りれば、「原事実」と呼ぶほかないであろう。 ・・・(中略)・・・ただ事実そうである・・・(中略)・・・この意味で「原事実」なのである。(同書、p205)

<いま>を根源的に開く作用の主体、それは「私」である。<いま>とは、「私」によって開かれる時であり、「私」とは<いま>をひらく作用主体である。(同書、p209)

湧き出し消えゆく原事実であり、意味を付与しつつある<いま>をすでに意味が固まった一つの客観的世界にはめ込むことはできないのである。(同書、p225)

根源的現在としての<いま>とは、絶え間なく新しいことが湧き出し消えてゆく現場である。・・・(中略)・・・絶えず世界が湧き出すこと、そしてある事象が可能性から現実性へと移行すること、このすべては神秘としかいいようがないのである。(同書p226-7)

<いま・ここ>という場がすべてなのだ。根源的に存在する「私」が<いま・ここ>に開けている特定の刺激状況に過去の意味を付与するのではない。そうではなくて、<いま・ここ>に開けている特定の刺激状況に過去の意味を付与する主体を、そのつど「私」と呼ぶだけなのである。だから、この作用が休止しているとき、「私」は完全に消えている。(同書p232-3)

 過去の意味は<いま>が「どこからともなく」そのつど湧き出すように、「どこからともなく」<いま・ここ>に開かれている近く風景に到来する。その意味を到来させるのは「私」であるが、・・・(中略)・・・「私」は<いま・ここ>の知覚風景にそのつど「どこからともなく」過去の意味を到来させている、としか言いようがないのだ。・・・(中略)・・・
 「私」が過去という意味を根源的に付与するのであるから、「私」が死んだあと「過去世界一般」というものが残るわけではない。
 このことを腹のそこから自覚することはじつに晴れ晴れするものである。そこに愛すべき憎むべき人間たちが残るわけではない。・・・(中略)・・・
 過去は「ない」のであるから、私が死んだ「あと」ビッグバン以来の一三八億年におよぶ「客観的世界」が広がっているわけではない。・・・(中略)・・・ つまりまったく実在しないのに(なぜなら過去は「ない」のだから)あたかも「ある」かのように意味付与した仮象なのである。この宇宙に過去を蓄えておく場所はないのであるから、これら観念を蓄えておく場所もない。全人類史は文字通り跡形もなく消えてしまったのである。
 私はいずれ死ぬであろう。そして、私は何も失わないであろう。なぜなら、「あとに残した世界」は完全に無であり、せいぜいそこには「あたかもあるかのように」言語によって捏造された精巧な仮象が舞っているだけだからである。(同書、p232-4)

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