philosophy

西洋倫理学批判:プラトンのイデア論

2020年6月16日 火曜日 曇りのち雨

小浜逸郎 倫理の起源 ポット出版 2019年

イデアとは言葉の単なる抽象作用(小浜、同書、p152)

プラトンが「イデア」という観念を用いてこの世界を秩序づけようとする試みにおいて行ったことは、言語哲学的な面からいえば、多様な実在に触れた人間の思惟作用(言語作用)が、もろもろの実在をその類似性のもとに抽象し、しかるのち出来上がった抽象概念を実体として固定化したということにほかならない。(小浜、同書、p157)


 ・・この概念の固定化・客体化がいったんなされると、それはそれ自体で存在しているかのような幻想に私たちを誘い込む。  言語のこの自己幻惑的な特性は、さらに進んで、もろもろの「美しい」事物よりも、純粋性に於いてまさる「美」という概念そのものの方が、存在的にも先立つのだという錯覚を呼び起こすのである。「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」(補註1)にもかかわらず。  この錯覚は、・・言葉というスタイルによって思考する私たちにとって、ほとんど逃れることのできない必然性を持っている。しかし、必然性を持ってはいても、それが錯覚であることには変わりがない。「神」が宇宙万物の「原因」なのではなく、はじめにあったものは、私たち人間の力や日常的状態をはるかに越えていると感じさせるもろもろの事象であり、それらの事象に対する私たち自身の驚きと畏敬の感情、すなわち「神的な体験」なのである。「神的な体験」が普遍的であればあるほど、「神」は存在し、しかももろもろの事物に先立って存在すると感じられるようになる。だが本当は、「神的な体験がある。『神』そのものという様なものはない」のである。(小浜、同書、p162−163)

補註1: 小浜さんが小林秀雄の著作より引用。


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・・だが、プラトンの国家論には、大きな思想的功績もまたある。それは、哲学的思考を社会の考察にまで拡張して、正義とは何か、共同体の幸福とは何かといった社会哲学的な問いの形式を創始したことである。その始原の原理であるイデア論がたとえ倒錯にもとづいていたとしても、そのとととは別に、あるべき共同体のヴィジョンを具体的に構想したところには、哲学する彼の本来的な動機がよく活かされている。哲学を単なる暇人(すこら)の遊戯とみなしていなかった証拠である。(小浜、同書、p168)

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