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やむをえないで犯す罪と、遣らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている彼は、性質の宜しくないこの余裕を非常に悪み出した。

2023年1月23日 月曜日 曇り

おれはそんな事で人と離れる人間じゃない」
 自分を細君に説明しようとつとめなかった彼も、独りで弁解の言葉を繰り返す事は忘れなかった。
 しかし細君の父と彼との交情に、自然の溝渠みぞが出来たのは、やはり父の重きを置き過ぎている手腕の結果としか彼には思えなかった。
 健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。恭賀新年という端書だけを出した。父はそれを寛仮ゆるさなかった。表向それをとがめる事もしなかった。彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲りくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。こういう手腕で彼に返報する事を巨細こさいに心得ていた彼は、何故なぜ健三が細君の父たる彼に、賀正がせいを口ずから述べなかったかの源因については全く無反省であった。
 一事は万事に通じた。利が利を生み、子に子が出来た。二人は次第に遠ざかった。やむをえないで犯す罪と、らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、性質たちよろしくないこの余裕を非常ににくみ出した。(夏目漱石、大正四年、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/783_14967.html、道草、七十七、青空文庫より引用)

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 健三はこの小さい肉の塊りが今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。
「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」
 細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。
「何ですって」
 健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。
「それがどうしたの」
「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」
「詰らないわ。ひとに解らない事さえいいや、いかと思って」
 細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三はいやな顔もせずに書斎へ入った。
 彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息ぜんそくたおれようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位地が手にるようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その島田の事も御常おつねの事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。(夏目漱石、大正四年、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/783_14967.html、道草、八十二、青空文庫より引用)

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「まだなかなか片付きゃしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部うわべだけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」
 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るからひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」
 健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。(夏目漱石、大正四年、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/783_14967.html、道草、百二、青空文庫より引用)

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・・彼はその十日を利用しようとした。彼はまた洋筆ペンを執って原稿紙に向った。
 健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。あたかも自分で自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、またおのれの病気に敵討かたきうちでもしたいように。彼は血にえた。しかもひとほふる事が出来ないのでやむをえず自分の血をすすって満足した。
 予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。
「ああ、ああ」
 彼はけだものと同じような声を揚げた。(道草、百一、青空文庫より引用)

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 ・・

 彼は自分の権利も主張しなかった。また説明も求めなかった。ただ無言のうちに愛想あいそうを尽かした。そうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼らに取って一番非道ひどい刑罰に違なかろうと判断した。
「そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。貴夫あなたも随分執念深いわね。御兄おあにいさんが御聴きになったらさぞ御驚ろきなさるでしょう」
 細君は健三の顔を見て暗にその気色けしきを伺った。健三はちっとも動かなかった。
「執念深かろうが、男らしくなかろうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたって、感情を打ち殺す訳には行かないからね。その時の感情はまだ生きているんだ。生きて今でもどこかで働いているんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」
「御金なんか借りさえしなきゃあ、それで好いじゃありませんか」
 こういった細君の胸には、比田たちばかりでなく、自分の事も、自分の生家さとの事も勘定に入れてあった。(道草、百、青空文庫より引用)

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