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第二次アヘン戦争・アヘン貿易と奴隷貿易の合法化

2016年12月27日 火曜日 曇り

陳舜臣 香港 世界の都市の物語16 文藝春秋 1997年

香港
香港という地名は、九龍、新界を含め、その付近の二百余の小島嶼をあわせて、そう呼ばれる。1842年8月に締結された「南京条約」による占拠地は、75.62平方キロであった。1860年に香港の対岸の九龍が追加され、その後背地の新界を含めた959.3平方キロが、1898年の条約によってさらに追加された。いま私たちが香港と呼んでいる土地の92パーセントは、最後の条約による追加分である。二回目の条約(1860)は中国では「第二次アヘン戦争」による結果としているが、イギリスでは「アヘン」によって軍隊をうごかしたというのは、人聞きも悪いので、事件発生の船名をとって「アロー号事件」と称している。(陳舜臣、同書、p16-17)

税率表改正・アヘン取引の合法化(1860)
 香港の建設は、新しい時代の幕あけといってよい。新天地を得た自由商人の力が、この地にみなぎっていたようだ。それは力といっても、猥雑なものである。香港を生みだした二つの戦争は、まずどこからみても褒められたものではない。新しい時代を築こうという意気に燃えた人も、すこしはこの地にいたかもしれないが、一攫千金をねらう冒険家のほうがずっと多かったはずである。
 アヘン取引の合法化が、アヘン商人たちの願いであった。アロー後事件と呼ばれる、第二次アヘン戦争によって、彼らはそれを手にしたのである。それもよく注意しなければ、うっかり見おとすようなところに、アヘンの合法化が、そっとさしこまれている。
 キリスト教宣教師、信徒の保護。布教、信教を禁止しないという誓約。といったもっともらしい項目のつぎに、いかにも事務的なかんじで
 ーーー税率表改正のための委員を任命すること。
 という要求がはいっていた。そのつぎが海賊鎮圧のための協力と援助という、これまたどこからも反対のでない項目であった。
 税率表改正の眼目は、リストのなかに、「洋薬」という一条を挿入することである。これは、「外国から入る薬品」であり、アヘンもそれに入るのだ。中国はちゃんと税率を定めて、外国からきた薬を、合法的に輸入することができる。もはや賄賂をつかったり、危ない橋を渡ることはないのだ。合法化かもしれないが、やはり大きな声では言えないようなかんじであった。
 ごまかしといってよいだろう。香港の性格のなかにそれがあった。(陳舜臣、香港、p35-36)

奴隷貿易の合法化(1860)
 ・・このときの条約は、北京条約といわれるが、その第五条に、
 ーーー清国人にしてイギリス植民地、その他海外諸地方に職を求めんとする者が、そのためイギリスの臣民と契約を結び、または右の者およびその家族が清国開港場におけるイギリス船に搭乗するは全く自由なる旨を公布すべきこと・・
 といった文章がみえる。
 清国は原則として、自国民の海外渡航を禁じていたので、これはその解禁という形をとっている。
 北京条約が結ばれた1860年は、日本でいえば万延元年にあたる。原則として国人の海外渡航を禁じていたところはおなじである。だが、中国では特殊な事情があったのだ。
 それは「猪仔貿易」があったからである。・・Pig は隠語で、苦力(くーり)すなわち労働者のことである。彼らは金で売買されるので、奴隷とおなじである。奴隷売買はよく儲かる仕事であり、欧米でもイギリス、ポルトガル、フランス、アメリカなどの奴隷商人は、いずれも大富豪になった。中国人苦力はおもに東南アジアに連行されている。これを管理するには武装力が必要で、それを背景に十八世紀にはボルネオの羅芳伯が金鉱労働者を集めて、巨富を得ているし、十九世紀には錫鉱労働者に君臨した葉亜来が知られていた。
 1850年ごろはイギリス領植民地で錫やゴムの労働者が極端に不足し、「猪仔貿易」に頼らざるをえなかった。猪仔を増やすためには、彼らを合法的に出国させるのが、最上の策であった。アヘン貿易を合法化したのと同じように、奴隷貿易をも合法化したといえるのである。
 英領になった初期の香港は、アヘンと苦力貿易によって栄えた。十数年たって、北京条約(1860)で二つとも合法的となり、ますます栄えることになった。(陳舜臣、香港、p36-37)
 
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装うというのは、香港の習性となっている。アヘンはないと装い、じつはたんまりあるし、苦力貿易なぞは知らないふりをして、裏では盛業中なのだ。(同、p38)

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補註 ピッグ・トレード=苦力貿易について 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によると・・・
https://kotobank.jp/word/華僑-43500
・・そのうちでもっとも著名なのはいわゆる苦力(クーリー)貿易による移住である。苦力貿易は英語でピッグ・トレードpig tradeともいう。pigは広東(カントン)語でいう「猪仔(ツウチァイ)」(ブタの子の意)である。弁髪をpig tailとあざ笑い、家畜同様ぎゅうぎゅう詰めにして蒸気汽船の甲板または4等船室で大量にアジア、アメリカ大陸へ運んだことが語源といわれる。「猪仔」の非人間的境遇をつくりだしたのは、ほかでもない清朝統治の政治的腐敗と、それに伴う経済的疲弊、これに拍車をかけたイギリスをはじめとするウェスタン・インパクト、アヘン戦争を手始めとした西欧列強の中国侵略である。アヘン戦争などで解体を余儀なくさせられた華南一帯の農村社会は、当然のことながら多数の流亡農民を生み出した。これら流亡農民を外で待ち受けていたのは、西欧列強の植民地主義だった。当時西欧資本主義は産業資本主義の満開への道程にあった。植民地の分割と独占への角逐、それに並行して植民地開発は急ピッチに展開した。
 それまで植民地外から導入される労働者は主としてアフリカ大陸の黒人労働者だった。しかしアフリカ大陸自体の植民地化、さらには相次ぐ奴隷解放令の実施(イギリスは1833年、フランスは48年、ペルーは55年、アメリカは60年、オランダは63年、スペインは70年)で、安い労働力源は枯渇または喪失をみせ始めた。黒人奴隷の代替労働力への需要が世界的規模において生じてくる。イギリスの植民地支配で生み出された南インドの流亡農民と、華南をおもな流出源とする中国の流亡農民が、その代替労働力の主たるものとして浮かび上がる。苦力(クーリー)は英語のcoolieから、その英語の語源はさらにヒンディー語のkuliあるいはタミル語のkuliに求められる。サトウキビ畑などの農園、ジャングルの開発、金・錫(すず)鉱山の採掘、鉄道の敷設労働者として、初めはインド人のクーリーが、続いて中国人の苦力が南アフリカ、西インド諸島(とくにキューバ)、アメリカ、カナダ、ペルー、英領ギアナ(現ガイアナ)、パナマ、オーストラリア、ハワイ、東南アジアなどに導入、連行された。これが史上有名な「ピッグ・トレード」である。
  初期の苦力の海外渡航(なかんずく東南アジア向けの場合)はけっして公明正大な自由契約に基づくものではなかった。むしろヨーロッパ系の移民会社、苦力貿易業者が苦力のおもな輸出港――厦門(アモイ)、汕頭(スワトウ)、広東(カントン)、香港(ホンコン)、マカオにまで出向いてきて、その下請けをした中国人奸商(かんしょう)(苦力頭または猪仔頭ともいう)を使って、生活苦にさいなまれていた流亡農民を誘拐したり、ごまかしたりして、甲板や船底につなぎ、そして押し込む形で連行した。現地では、慣れない気候と風土、マラリアなどの風土病が待ち受け、彼らはそれらの悪条件に耐えながら「苦工」という力仕事をこなしていた。苦力の一部はやがて小商人となり、植民者と被植民者のミドルマン的存在として植民地支配体制に組み込まれ、華僑社会が徐々にできあがる。この先行者社会につてを求めて親戚(しんせき)、縁故者らが続々と詰めかけ、今日みられる大量でそしてユニークな「よそ者」社会が形成された。[戴国煇]

文献: 『ガース・アレキサンダー著、早良哲夫訳『華僑・見えざる中国』(1975・サイマル出版会) ▽戴国煇著『華僑』(1980・研文出版) ▽日本経済新聞社編『華僑』(1981) ▽戴国煇編『もっと知りたい華僑』(1991・弘文堂) ▽スターリング・シーグレーブ著、山田耕介訳『華僑王国――環太平洋時代の主役たち』(1996・サイマル出版会)』

補註 煇 キ、クン、コン、ウン、ひかり、あかい
 煇を正字とし、「光なり」と訓し、輝はその俗字であるが、のち輝の字形を用いることが多い。(白川、字通、p251)

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