2020年3月4日 水曜日 曇り

小川剛生(おがわ たけお) 兼好法師 徒然草に記されなかった真実 中公新書 2017年
・鎌倉の兼好: 無位無冠の「四郎太郎」
・都の兼好: 出家・土地売買・歌壇デビュー
・都の兼好(2): 内裏を覗く遁世者
・南北朝内乱時の兼好: 貴顕と交わる右筆
・歌壇の兼好: 破天荒な歌集・晩年の妄執
・徒然草と「吉田兼好」:吉田兼倶の歴史歪曲
補註: 兼好法師は「吉田」でも(ひょっとすると「卜部」でも)ない。兼好法師は兼好法師と呼ぼう。
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2018年10月10日付け河田容英さんのウェブサイトに充実した考察が記載されていた。特に「兼好と食」について。ご参照下さい。:
https://bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/tokiyori.html
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補註: 国文学者の小川剛生は、兼好の父とされる卜部兼顕、兄弟とされる卜部兼雄・慈遍らと兼好との血縁関係は同時代史料では全く確認できず(兼顕・兼雄・慈遍もそれぞれ赤の他人である、ともしている)、さらに戦国時代の吉田兼倶が唱える以前に兼好が神道家の卜部氏の出自であることを述べた者はいない、とした上で、卜部氏は神祇官の家柄以外にも地方の武士にも同姓のものがおり、その中には成功によって官職を得た者もいたことを指摘し、今日通説とされる兼好の系譜や経歴は吉田兼倶による捏造であり、実際の兼好は出自も生国も不明、仮に卜部氏であったとしても吉田神社とは無関係である、とする説を主張した。小川は『正徹物語』に兼好が滝口の武士であったと記していること、金沢貞顕とのつながりから、兼好法師は滝口の武士として朝廷に仕えた、または金沢家の被官を務めたりした経験を持つ武士「卜部兼好」の出家後の姿であると結論づけている。(ウィキペディアから引用)
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