literature & arts

山本周五郎「石ころ」

2021年4月12日 月曜日 曇り

山本周五郎を読むアリア   山本周五郎作「石ころ」 <山本周五郎を読むアリア>: 癒しの朗読屋アリアさんのユーチューブで聴く。

「名も求めず、立身栄達も求めず、ただひとりの戦士として黙々としておのれの信ずる道を生きる、多田新蔵というもののふの話です。」(アリアさんの上記サイトより引用)

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補註: 太宰治の「きりぎりす」と対照的に、この「石ころ」の女主人公まつおは、多田新蔵を見損なってはいなかったのである。このような物語を書いて残してくれた山本周五郎翁に感謝している。アリアさんの朗読も淡々と良かった。

周五郎ワールドでは、多数派とは言えないまでも、「遠くを見ている」女性が主人公として描かれていて、私は好きだ。恋愛・結婚・夫婦・家族が描かれることになるが、家や家庭での主人公は、当然のことながら、女性である。

今回の「石ころ」では、主人公の多田新蔵が、他者の視点から描かれる。岳父はすでに新蔵の戦場での戦い姿を見たことがあり、また今回、義兄(主人公まつおの実兄)が新たに新蔵の戦いぶりを見ることとなり、戦う新蔵の「もののふ振り」がまつお妻を含め家族皆に理解される。そこに周五郎ワールドの温かさと分かりやすさがある。けれど、もしも、だれも新蔵の戦場での姿を見なかったと仮定してみよう。それでも、時が経つうちにきっと、まつおは新蔵の良さ(尊さと私は呼びたい。輝く黄金ではなく、燻し銀の重み=尊さ)を見出す日が来るに違いないと。また、まつお妻はその尊さを見出すことのできる尊い女性であるに違いない。

周五郎の短篇では、多くの場合、この『石ころ』のように短く分かり易く描かれるのである。しかし、一方、周五郎ワールドを俯瞰的に眺めると、短篇の容器だけでは盛り込みきれない広さ・奥深さがある。長編『樅ノ木は残った』では、ひたすら耐える原田甲斐を見て、彼に失望して、見損なったと傷ついて、多くの友人知己が、彼のもとから去って行く。それでも甲斐は、迷いながらも、自分の生きかたを静かに耐えながら歩いていく。今回の多田新蔵もそのような主人公に成長していくことかも知れない。戦国の世、甲斐の武田勝頼の臣下であるから、新蔵・まつお夫妻にもこれから大きな試練が待ち構えていることと思うのである。

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補註: 「石ころ」は青空文庫では作業中となっていた。

石ころ (新字新仮名、作品ID:57547) https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1869.html

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2021年6月8日 HH追記:

同じく山本周五郎の「一人ならじ」・・https://www.youtube.com/watch?v=L9wsEBPsmiQ  同じく甲斐武田の武士「栃木大助」のお話: 壮絶である。が、「もののふ」として、義足を継いでも戦線に復帰するという意志の強靭さに感動する。

題名の「一人ならじ」は、城攻めの戦(いくさ)で戦って怪我したり死んだりした人は、敵味方含めて、大助の他にも幾たりもいること、つまりこの自分一人ではない、ということを言っているのである。

「今だけ、金だけ、自分だけ」というスローガンが現代の多くの人びとの心性を表わしている・・と言われている。これと対照的に、この周五郎ワールドには「一人ならじ」と断言できる栃木大助がいる。

「戦いには勝ったのか?」と確認する大助、「戦いに勝ったことが大切であり、自分の足を失うという大怪我が、軽率な行いの結果だったのか、それともやむを得なかった勇敢な自己犠牲の帰着だったのか、そんなことは問題にする必要がない、些細なことに過ぎない、と語る大助。

全体の目的・利益・幸福のために、自己犠牲的利他主義的な行い(altruism)を選ぶことは、大助にとっては迷いのない自明のことであった。

考察はいずれ詳しく行いたいが、明日も朝早くから農作業の予定があるため、今日のところはここまでとしておきたい。(2021年6月8日HH追記)

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