ゲルマン語における子音推移: グリム-フェルナーの法則

2019年1月2日 水曜日 晴れ

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以下、ウィキペディアより引用。

グリムの法則(グリムのほうそく、ドイツ語: Grimmsches Gesetz、英語: Grimm’s Law)もしくは第一次子音推移ドイツ語: Erste Lautverschiebung)は、1822年ドイツの文献学者ヤーコプ・グリム(童話で有名な「グリム兄弟」の長兄)が、Deutsche Grammatik (1822) の中で体系化したゲルマン語における子音推移(印欧祖語からゲルマン祖語への分化の過程で起きた音韻変化)の法則である。以前より公用者の間で何となく指摘されており、最初に印欧語(ゲルマン語、ラテン語ギリシャ語)との系統的な比較を発表したのはラスムス・ラスクであるが、グリムの発表で定着した。印欧語の本格的な比較言語学はこれに始まる。

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第二次子音推移(だいにじしいんすいい)とは、西ゲルマン語群のうち、6世紀スイスオーストリアなどのドイツ語圏南部で発生、北上しつつ、9世紀頃までにドイツ語圏のほぼ中央で停止した、高地ドイツ語に起きた音韻変化である。グリムの法則で知られる第一次子音推移に引き続いて起きたため、この名がある。この変化によって、無声破裂音が語頭や子音のあとで破擦音になり、それ以外の環境では摩擦音になった。

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ヴェルナーの法則(ヴェルナーのほうそく、Verners lovVernersches Gesetz)またはヴァーナーヴェアナーの法則フェルナーの法則ゲルマン祖語における音韻推移を示す法則であり、無声摩擦音*f, *θ, *s, *xが強勢のない音節の直後に来る場合有声化して各々*b, *d, *z, *gになることである。デンマーク人学者のカール・ヴァーナー(ヴェルナー)1875年に発見した。(ウィキペディアより引用)

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ゲルマン語派(ゲルマンごは、: Germanic languages, : Germanische Sprachen, : Germanska språk)はインド・ヨーロッパ語族のうちの一語派。ドイツ語、オランダ語、英語などが含まれる。共通のゲルマン祖語から分化したとされる。

  • グリムの法則という法則にそって語音が変化した。
  • かつては語幹(多くは第1音節)に強勢が来た。しかし一部の言語ではこの特徴は失われ、ほかの言語でも借用語にはこの法則は適用されないことが多い。現在もつねに第1音節に強勢があるのはアイスランド語のみである。

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ゲルマン祖語(ゲルマンそご、Proto-Germanic)は、インド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語)から分化した言語の一つであり、ゲルマン語派に属する言語、すなわちドイツ語英語オランダ語デンマーク語ノルウェー語スウェーデン語アイスランド語などの祖先の言語(祖語)である。文献が全くないので他の言語の知識から復元(再構)して考察されている。

グリムの法則とは、ゲルマン祖語が印欧祖語から分化するときに破裂音に起こった重要な変化である。紀元前6世紀頃から紀元前2世紀までにかけて起こったとされる。

ヴェルナーの法則とは、無声摩擦音が有声音へと音韻推移する現象に関する法則である。

  • 無声摩擦音 (/s/, /f/, /θ/, /x/) はアクセントのない音節に続くとき有声化してそれぞれ[z], [v], [ð], [ɣ]になる。
    • 言い換えると語頭またはアクセントのある音節に続くときに無声のままである。
    • ここでいうアクセントとは、印欧祖語から引き継いだ「位置の変わるアクセント」である。
    • ヴェルナーの法則の変化の直後に第一音節に強勢がある現在のようなアクセントになった。
    • アクセントの変化の後 /s/の有声の/z/が音素になった。
    • 有声の /f/, /θ/, /x/ は/b/, /d/, /ɡ/ と混同されることがある。

以上、ウィキペディアより引用。

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英語になりきったかフランス語的外来語かで発音が違う。たとえば homage ホミッジ & hommage オマージ

2019年1月1日 火曜日 曇り

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猪浦道夫 英語語彙大講座 DHC 2017年

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接尾辞 -age をフランス語読みした単語

この -age という語尾は、本来フランス語の動詞の現在語幹について男性名詞を作る語尾なのです。・・そして完全に英語化すると「エッジ(実際にはイッジに近い)」と読まれます。・・英語でもフランス語的外来語と受け取られたものは、フランス語読みされた。(猪浦、同書、p113-114)

イマージュ image 、オマージュ hommage (献辞)は動詞から派生した語ではありません。(猪浦、同書、p114)

補註: homage ・・ちなみに、ジョージ・オーウェルの「カタローニア讃歌( Homage to Catalonia)」の私の所持しているオーディオブックではホミッジと発音されていた。その時まで、オマージュと読むと思っていたので怪訝に感じたものであった。辞書で調べてみると・・

綴りと発音に注意! 英語では homage と綴り、ホミッジと読む。三省堂・英語語義語源辞典によると、homage は、ラテン語 homo (=man)に由来する古フランス語 hommage (オマージュ)が中英語に入った、とのこと。

さて、それでは私たち日本人はこの言葉をどう発音し、どう綴るべきか? 上記の経緯を頭に入れた上で、臨機応変、その場の状況や文脈に応じて、英語・フランス語・日本語と使い分け綴り分けると良いと思う。

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小浜逸郎 日本語は哲学する言語である(3)

2018年12月31日 月曜日 曇り時々雪

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である 徳間書店 2018年

・・日本語の文法学的な事実のいくつかにメスを入れることで、日本語が人間探究の学としての「哲学」によくかなっているさまをさらに解き明かすことにしましょう。情緒的だから哲学に向かないという、欧米スタンダードにもとづいた評価から少しでも脱却すべく。(小浜、同書、p164)

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品詞分類批判

・・文をその構成要素にまで分解し、それらを組み合わせて、再統合されたものとして文の構造を理解するという近代西洋由来の文法学の方法それ自体が、日本語について考えるのに適していないのではないか。(小浜、同書、p167)

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本居宣長の「玉と緒」

時枝誠記(ときえだもとき)の詞辞論 

「詞」が宣長のいう「玉」に、「辞」が「緒」に該当する。

小浜流に言い直すと、詞は、「客体化・対象化の過程を経た語群の形式」、辞は、「客体化・対象化の過程を経ずに主体の情意が直接的に表出された語群の形式」。

日本語は、細かく単語に分解し、それに一つ一つの品詞分類を伴わせることには向かない言語。(小浜、同書、p171)

厳密に「詞」(品詞)と呼べるものは、名詞、動詞、形容詞の三つ。(小浜、同書、p186)

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・・特に辞に相当する言葉、および動詞の一部や特殊な名詞においては、同一音韻、同一アクセントの語は、偶然の一致を除き、品詞や用法が違っても、もとをたどればほぼ同じ観念やことがらを表している。(小浜、同書、p186)

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2019年1月1日 火曜日 曇り時々雪

補註 お正月、ゆっくりと日本語や英語の文法や語彙の語源を調べたり、ドストエフスキーの小説(Idiot、英訳のオーディブル版)を聴いたりして過ごしている。

初詣は大谷地神社に参る。境内には幾種類もの松やトウヒなどの針葉樹が自然樹形で堂々と立ち並んでいる。この地が先祖の人々によって開拓されてから早、百数十年の月日が流れ、この松たちも風雪に耐えながら巨木に育ってきたことを念う。

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繰り返しますが、いわゆるテニヲハは、音韻が同じなら、後の文法学がどんな精密な整理や区別を施そうと、原初的には同じ観念を表していたと推定できるのです。アルカイックな時代には、生活も衣食住を中心にした単純素朴なものだったでしょうから、身体とその周辺の動きや状態、様子などにかかわるものが多かったと考えられます。(小浜、同書、p218)

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 コソアドが・・厳密に区別されて使われるということは、やはり日本語が、・・その時々の相手との関係を重んじる言語であることを示しています。・・このことは、・・言語の本質、つまり、言葉とは、情緒を基礎とした関係の創造、維持、時には破壊のために音声表出することであるという定義にかかわることです。(小浜、同書、p223-224)

日本語の人称詞の、これらの複雑な転換・転用は、やはり、いつも相手の立場に立つ、または「向き合っている」という関係を過度なほどに意識する修正から来ていると考えられます。(小浜、同書、p226)

 こうした面、つまり基本的な人間関係の認識をしっかりさせるという意味では、日本語はけっして論理的でないとは言えません。コソアド体系の存在は、むしろその部分が堅固にできている証左だといえるでしょう。ただ、手前、お手前のように、相手の立場に配慮するあまり、かえって人称の使い分けを難しくしているとも言えます。この難しさを克服するためには、単に「認識の発達」を促すだけでは足りず、長きにわたる深い情緒的な接触を通して、「関係の発達」を促すようにしなくてはならないでしょう。(小浜、同書、p228)

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小浜逸郎 日本語は哲学する言語である(2)

2018年12月30日 日曜日 曇り時々雪

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である 徳間書店 2018年

「こと − もの」問題

「こと」とは、語ることができ、語られるに値するはっきりとした輪郭を持った物事、あるいは、もう語られてしまって、共同体のメンバーたちに共有されている物事であり、

「もの」とは、それと対極にあって、語られるべき素材はそこにあるのに、まだうまく「言」にまで育っていず、そのため共同体が、なんとなくぼんやりとしたイメージでしかとらえられていない物事、

 ・・このように「こと」と「もの」とを分けることによって、そこに、ある共同体の生活が何によって安定を得、何を恐れ、何に対して夢や気体や不安を抱くか、そのプロセスを理解するためのヒントが得られるでしょう。(小浜、同書、p106)

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「ひと − もの」問題

・・日本語的思考は、「もの」に関心を寄せる場合でも、それを死んだ自然として対象化するのではなく、必ずなにがしか「ひとびと」への関心に引き寄せようとします。その引き寄せの媒介をなしているのが、情緒の作用なのです。(小浜、p115)

 ・・言葉とは、西欧人が考えたようにロゴスではなく、むしろ日本人がとらえたように、「言霊」なのです。この把握の仕方は、言葉を発するもの、受け取るものにとっての魂のやり取りを意味しています。ですから、それは単に世界のありさまを写し取るものなのではなく、人と人との交流の姿そのものなのです。・・ 西欧の言語哲学が、その研究対象を、論理的に整序された陳述形式に過剰なほどエネルギーを集中させるのに対して、日本語による言語哲学は、その関心を、日常の共同的なやり取りそのものにまなざしを注ぐのです。(小浜、同書、p118)

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 ・・では日本語で(を)哲学するというとき、何をどのようにすればよいのか。

 西洋的な言葉の運びに制約された「哲学」という言葉のこれまでのイメージを変えるのです。哲学的(論理的)思考一般から離れるのではなく、それを駆使しつつ、日本語の語彙、文法構造、言い回しなどの独特さがはらんでいる人間把握、世界把握のあり方を解明し、それによって、新しい思考の地平を開いてみせるのです。(小浜、同書、p108-109)

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小浜逸郎 日本語は哲学する言語である

2018年12月29日 土曜日 雪 昨日、バッテリー修理に出していた私の MacBookAir2015 が返送されてきた。久しぶりにバッテリー切れにほとんど煩わされることなくデスクワークが継続できることになった。さらに、本日、読書用メガネのレンズを新調し、再び、すぐには眠くなることなく本を読んだりキーボードを叩いたりできるようになった。久しぶりの覚醒 awakening である。

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小浜逸郎 日本語は哲学する言語である 徳間書店 2018年

日本語が世界をどのようにとらえているかという問題。(小浜、同書、p74)

日本語の特質のうち、世界把握の仕方という点で、特に重要と思える三つのテーマ:

1 「いる − ある」問題

2 「こと − もの」問題

3 「ひと − もの」問題 (小浜、同書、p74)

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「いる」は、その語られている状況に自分自身がひそかに参入して、その状況と「私」とが親しく居合わせていることを表しています。(小浜、同書、p77)

「ある」は、こちらから距離を取り、当のモノや人を突き放して客観的に眺めたときの、存在や様態を表す表現なのです。(小浜、同書、p83)

このような「いる」と「ある」の区別が日本語にあって、欧米語にないという事実は意外に重要で、日本語が、よくも悪しくも周囲との情緒的関係を大切にする言語だということを象徴しています。(小浜、同書、p83)

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